1611年に三陸海岸を襲った大津波を題材にした絵本「幻燈会の夜」( ISBN978-4-87720-319-1 )という本を紹介します。
先の東日本大震災でも、「幻燈会の夜」の舞台となった岩手県宮古市鍬ヶ崎は壊滅的な被害に合いました。この悲惨な現実を忘れないため、そして後世に正しく語り継ぐために「幻燈会の夜」は誕生しました。
あらすじ--
明治二十九年。岩手県宮古の鍬ヶ崎の港では年明けから不漁が続いていた。鍬ヶ崎小学校では、幻燈会が開かれることになり子供達は大喜び。五月、突如活気づく港、六月十五日、子供たちが待ちに待った幻燈会が開かれた。
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以前、吉村昭が執筆した「三陸海岸大津波 」という本を読みました。津波の前兆だった井戸の水の濁りや、地震直前の不可解な大漁状態、不気味な海からの音、この「幻燈会の夜」はこういった地震、津波の予兆を巧みに盛り込み、また、たくさんの子供達を守ることになった幻燈会のエピソードを事実を元に描いています。Amazonなどで売ってくれたらいいのになと思います。
去年の夏頃、吉村昭を特集した文芸春秋を読みました。( 文藝春秋増刊 吉村昭が伝えたかったこと 2011年 09月号 )
吉村昭は三陸にゆかりの深い人物で、文芸春秋の特集号の冒頭では平成9年の岩手県宮古市で行われた宮古海戦についての講演が公開されています。また、作家生活の始まりとも言える「星への旅 」は岩手県田野畑村が舞台となっており、1966年に太宰治賞を受賞しています。吉村昭の「関東大震災 」やこの特集号である文芸春秋には、近く必ず来るとされている首都圏直下型地震(または大地震)への根拠ある備えについて、大変勉強になる内容となっており、合わせてお薦めしたい本です。
絵本「幻燈会の夜」の著者は、花坂徹(てつ)。
これは偶然で余談で自慢ですが、吉村昭を特集した文芸春秋の中で、吉村昭が宮古の歴史を調べる際にたどり着いた、花坂蔵之助という人物の息子がこの絵本「幻燈会の夜」の著者です。そしてその著者は私の従兄であり、花坂蔵之助は私の叔父です。
ブログ書いた。絵本「幻燈会の夜」東日本大震災と明治の三陸大津波 post.ly/4hhkz
— ıɥɔnıɹoɥ oʞıɯɐu (@739) January 6, 2012
明治の三陸大津波の絵本『幻燈会の夜』発売 dlvr.it/13dyth
— ピア (@pianomanshow) January 5, 2012
ダライ・ラマ14世 自由報道協会記者会見 ダライ・ラマ14世が10月末から来日し、高野山〜東北被災地などを巡り講演を行った模様です。 ダライ・ラマ14世が来日していた事自体全く知らなかったんですが、Twitterで11/7朝に「今からダライ・ラマの会見10時からUstでやるよ」というTLがグングン流れて来たので見る事ができました。
ほへー一体誰が"腰抜け"かは別として、全然報道されないものなんですね。
Twitter -- 「今何してる?」をコンセプトに140文字で綴るミニブログとも言われる無料のWebサービス
Ust -- Ustream、誰でも簡単に無料でインターネット放送が可能なWebサービス
TL -- TwitterにおけるTime Lineのこと。色んな人のTweetが時間に任せて流れるスペース
さて、ダライ・ラマ14世について私が知っている事はあまり多くありません。ただ、私は世界/世間が受容している宗教家という人種が好きです。ポイントは言う事がわかりやすい所。圧力や政治を極力避けて、人間について慈悲深く語る所が大好きなのです。(ダライ・ラマ14世は政治家としての一面もあったが、現在は引退)誤解を恐れずに言うならばこれは、ダライ・ラマだけではなく、ローマ教皇、瀬戸内寂聴氏などについても言える事です。宗教家ではないですが、日本の天皇陛下もそれに近い仕事をなさっているような気がします。
ダライ・ラマ14世については、何と言ってもあの親しみの持てる日本人のような顔!首から上の写真などはまるっきり落語家風情ではないですか。
まあ、とにかく宗教については門外漢だからこそ、興味を持って彼らの話に耳を傾けられるのかもしれません。まあダライ・ラマ14世といえば、一介の宗教家で片付けられる人ではなく、「ガッツリ国際要人」という感じなんでアレですけどね。
下記のムービー↓は2011年11月7日に東京で行われたダライ・ラマ14世の自由報道協会記者会見の模様です。話の内容は比較的無難な所に落ち着いたものの、ダライ・ラマ14世がどのような人物であるかの一端を垣間見れるたいへん良い会見でした。
冒頭、1時間15分ほど遅れて会見場に現れたダライ・ラマは最初に「皆さんおはよう、遅れて申し訳ない・・」と言ってペコリとお辞儀をし、みんなが「ノープロブレム」と拍手で迎えると「がっっはっは」と笑い席に着きます。さあ喋り出そうという時に会場を見渡したダライ・ラマはマイクの前に立つ記者に気付いて、「あなた何か言うことがあるの?」と記者を気遣います。
英語はアジア訛で日本人には聞きやすいカタカナ英語です。言いたい事はほとんど英語で言えますがたまにお付きの人に「アレなんて言うんだっけ」と助けを求める事があります。質疑応答ではTPPについてはわからないといい、パレスチナ問題についてはその質問には答えがない、あまりにも複雑すぎるという様な事も言っていました(パレスチナ問題を質問して一蹴された記者はパレスチナ人の父を持ち、かつての赤軍リーダー重信房子の娘である重信メイさんです)。返事は軽快かつ明快でジョークを飛ばしては景気よく笑います。ダライ・ラマ14世は76歳だそうですが、たいへん快活で健康な印象を受けました。
この動画以外にも今回の来日中の動画は探せば色々と出てきます。
今年は3月以降たくさんの宗教が、時には宗教の壁を越えて日本の東北のために祈りを捧げました。神や仏がいるならば何故こんなに意地悪な事をするんだろうかとまじめに思った事もありましたが、たくさんの人が(親でも子でも女としてや男としてでもなく)人として心のよりどころを求めてるこの時期、ダライ・ラマ14世の来日は多くの人の心の支えになったんじゃないだろうかと思いました。
14日朝パチっと目が覚めて時計を見ると5:10で外はまだ暗かったので、水を飲んで再びベッドに入りました。
9:30頃仕事の支度をして、さて家を出ようかと言うところで母から電話があり、祖母が朝4:50に亡くなって、すでに祖母は岩見沢の家に帰って来ていると電話がありました。
亡くなったあとあちこちに挨拶をして東京にも立ち寄ってくれたのかもしれないなと思いました。
会社に電話を入れて、飛行機を手配し、ネイルサロンで爪を落として喪服を用意してとりあえず実家に帰宅。
仮通夜10/15(土)、通夜10/16(日)、葬儀/四十九日繰り上げ法要10/17(月)の全てに出席。家族葬という形を取ったため、子(と配偶者)、孫(と配偶者)、ひ孫のみのこじんまりとした素晴らしい通夜、葬儀でした。
私の親戚にはカメラ好きが多くて、祖母は元気だった時、親戚達と北海道中を旅しては写真を撮ってアルバムにしていたので、祖母の写真はそれこそ無数にあるのですが、喪主である叔父が遺影に選んだのは12年前に私が贈った祖母の肖像画と4年前に兄が書いた祖母のデッサンでした。「遺影はこれにしようと決めていた。」と叔父が言ったとき、親戚みんながそれに気持ちよく賛成してくれたということで、それはそれでとても光栄な事なのですが、こんな事ならもう少しちゃんと・・・みたいなことで恐縮でした。畑仕事が大好きで花が大好きだった祖母のために、祖母の庭で取った秋の花を母が豪勢に飾りました。
孫が描いた遺影に、娘が生けた庭の花・・・。極め付けは葬儀後の晴れやかな空に虹・・・。
優しくて温かい祖母に相応しい印象的なお別れ会でした。
葬儀の後は親戚みんなでレストランに繰り出して、美味しいフランス料理を食べました。
Inter FMの抽選で当たったIndy Japan 2011 the Finalに行って来たよ。
小山駅から真岡線、一本前が1日1本走ってるSLだった。これも寝坊しなければ乗れてたかも。。でも茂木駅でSL見れた。
やっぱりライブで何かを見るのはいいなー。遠かったけどすっげー楽しかったよ。 帰りは16:00にツインリンクもてぎを出て、宇都宮で食事など2時間程費やして、家についたのが23時頃でした。疲れた。。
仙台最終日。予定はないので朝食終わるギリギリまで寝てて、午前中はうだうだと過ごす。
帰る時間も決めていなかったため、今まで乗った事のない「るーぷる仙台」という仙台市内をまわるツアーバスに乗る事にしました。「るーぷる仙台」はコンパクトなツアーバスで、一日乗車券600円を払えば、いったん降りても20分おきに出る別の「るーぷる仙台」に乗り降りできる便利なバスです。停留所は15箇所。仙台に来ると本当に良く見かけるんだけど、一度も乗った事は無かったので良い機会。
▼ バス停6 - 仙台城跡 初代仙台藩主、伊達政宗の城。有名な伊達政宗像。
小一時間程場内を散策。城はもうありませんが城下町を見おろす眺めは良いものでした。
バス停8 - 理学部自然史標本館前 仙台の中心地に近い市街地はほとんど東北大学のキャンパス。キャンパス周りを次のるーぷるがくるまで散歩。
バス停9 - 二高・宮城県美術館前 懐かしの"貧食跡"を散策。
その後タクシーをつかまえて仙台駅前で来た時と同じく中央駅前店の喜助にて牛タンを食べる。その後ゆっくりと仙台駅でお土産を見て回って夜ご飯用の駅弁(ハラコ飯)を買って新幹線にて帰京。
結局ずっと天気は悪かったけど、雨に振られる事もなく暑すぎず比較的快適な仙台旅行でした。
今回宿泊したホテルは三井ガーデンホテルという、清潔感あふれる都会のシャレオツなホテルでした。
朝食がおいしくてついつい食べ過ぎる。
遅い午前にホテルを出て、仙石線(せんせき)で松島に向う。そう言えば東北には「陸前」とつく地名が多い。仙石線にも「陸前原ノ町」「陸前高砂」「陸前浜田」松島海岸駅を過ぎてからも「陸前富山」「陸前大塚」「陸前小野」「陸前赤井」「陸前山下」と「陸前」駅が続く。ちなみに今回大変な被害をうけた「陸前高田」は 岩手県の地名です。東京の「武蔵なんとか」や「千歳ナントカ」よりも多い様に感じる。「陸前」は昔の国名です。
さて、松島駅には遊覧船を楽しみに来ました。宮古で遊覧船に乗って以来、ちょっとハマる。この数日、仙台は天気が不安定で、雨が降ったり、少し晴れ間が出たりと、遊覧船に乗るタイミングも難しかった。着いた時に運良く晴れ間が出たので、着いてすぐに遊覧船に乗る事にしました。遊覧時間は50分。結論から言うと、ちょっと遊覧範囲が広くて見るべきものが多くてすこし散漫になってしまいました。でも風をうけてカモメと走る遊覧船はやっぱり爽快だなー。
▼天気悪い。
遊覧船をおりて、目の前の瑞厳寺(ずいげんじ)の参道を歩いていたとき、遠くからドーンという音が聞こえ耳がキーン、参道の杉林が揺れ、周りの人が騒然としました。数分後、津波警報が発令された旨、災害放送が流れ、自衛隊機と思われるヘリコプターが頭上を飛び交い、消防車が海に近づかないよう注意喚起しながら走り回っていました。
▼瑞厳寺
残念ながら、松島観光はここまで。お土産も買えず、食事もできないまま、仕方なく動き出した電車で仙台に戻りました。残念。でももう少し遅かったら遊覧船にも乗れなかっただろうから良しとしよう。
仙台に戻って、少し休んで、地下鉄で長町にむかう。父のイトコ夫婦が営む割烹へ。父のイトコともその息子(親同士がイトコなので私のハトコ)とも初対面で、存在すら知りませんでしたが、出会ってすぐに馴染めたのはやはりお互いに「親戚」という気持ちを持っていたからだろうと思う。しかし、私の知らない間にも、遠い親戚が色んな人生を歩んでるんだなーと思いました。ハトコは少し年代が下だったけど、お互い喜び合って楽しく過ごしました。美味しいものもたくさん出してもらったし、凄く楽しかった。
今月も行ってきました東北(遊びに)。朝8:56の東北新幹線やまびこ。
平日とあって東京駅までが大変だった・・・。汗だくで満員電車に大荷物。東京駅にたどり着いた時にはぐったり・・・。
新幹線は快適。あっという間に仙台着。いつも味の牛タン喜助駅前店で牛タンを食べるのですが、駅前店は今回の地震でビルにかなりのダメージがあったらしく、ビルが封鎖、斜め向いの泉中央駅前店の喜助で牛タン食べました。心なしかいつもより美味しかったです。
その後ローカル線の仙山線で作並へ。お目当てはニッカウヰスキー宮城峡蒸留所。JR作並駅に着くと平日なので蒸留所行きのシャトルバスは無し・・・。JRの駅員さんに行き方を訪ねると、タクシーを呼んでくれました。(普通JRの駅員さんはタクシーを呼んでくれない。)
無料見学の行程はシンプル。1.現在は利用されていない、乾燥棟(キルン塔)でピートを触ったり臭ったり。2.仕込棟にて、最新のコンピューター制御室を横目に通りすがる。3.蒸留棟でポットスチルの大きさに唖然とする。4.貯蔵庫で樽見学。5.ゲストホールで試飲(待ってました!)
▼1.蒸留所のシンボルパゴタ屋根のキルン塔
▼2.コンピューター制御室
▼3.蒸留棟のポットスチル
▼4.樽貯蔵庫は木とウィスキーの香りが漂う
▼5.試飲は宮城峡、竹鶴、アップルワインの3種類
写真を撮る時のかけ声は「にっこりニカニカ、ハイニッカ!」でした。
まずはじめの詩は「雨ニモマケズ」
岩手県を代表する2大巨頭といえば、石川啄木と宮沢賢治。今回お土産屋などで見かけた宮沢賢治の詩、あまりにも有名であまりにひねりがないものの、今の東北には、いや今の日本にぴったりだろうと、"そういえば"思いました。
ちなみにこの詩は4月11日ワシントン大聖堂で行われた A Prayer for Japan という東日本大震災の犠牲者への追悼と、復興を祈る礼拝でもほぼ全文が読み上げられたそうです。
そして、盛岡の伯父が詠んだ俳句。
伯父は定年後、有馬朗人を師とし、長年俳句を詠んでいる。今回「天為集」という作品集の中で「東日本大震災を詠む」巻頭第一席(つまり最優秀)に選ばれた俳句。
天為 平成二十三年六月号 巻頭第一席
ここにも宮沢賢治のエッセンスが。伯父の師である俳人有馬朗人は、原子核物理の偉い物理学者でもあり、今回の原発事故を受けた有識者会議でも名前が上がるような偉い人なのだ。
最後の歌は「喜びも悲しみも幾歳月」。
この歌は浄土ヶ浜の遊覧船のガイドさんが最後に歌ってくれた歌です。バスガイドさんが歌うように宮古の遊覧船もガイドさんが歌ってくれます。この歌は1957年に松竹が作った映画、「喜びも悲しみも幾歳月」という大ヒット映画の主題歌だそうです。海の安全を守るため、全国の灯台を転々としながら暮らす夫婦の物語。ガイドさんの歌声に思わず目頭が熱くなりました。映画も見るつもり。
「喜びも悲しみも幾歳月」
1 俺(おい)ら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯(ひ)をかざす
灯をかざす
2 冬が来たぞと 海鳥なけば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼びかける
呼びかける
3 離れ小島に 南の風が
吹けば春来る 花の香(か)便り
遠い故里 思い出す
思い出す
4 朝に夕(ゆうべ)に 入船出船
妻よがんばれ 涙をぬぐえ
もえてきらめく 夏の海
夏の海
5 星を数えて 波の音(ね)きいて
共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)の
よろこび悲しみ 目に浮かぶ
目に浮かぶ
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
not losing to the rain
not losing to the wind
not losing to the snow nor to summer's heat
with a strong body
unfettered by desire
never losing temper
cultivating a quiet joy
every day four bowls of brown rice
miso and some vegetables to eat
in everything
count yourself last and put others before you
watching and listening, and understanding
and never forgetting
in the shade of the woods of the pines of the fields
being in a little thatched hut
if there is a sick child to the east
going and nursing over them
if there is a tired mother to the west
going and shouldering her sheaf of rice
if there is someone near death to the south
going and saying there's no need to be afraid
if there is a quarrel or a lawsuit to the north
telling them to leave off with such waste
when there's drought, shedding tears of sympathy
when the summer's cold, wandering upset
called a nobody by everyone
without being praised
without being blamed
such a person
I want to become
例によって若干二日酔い。初日、親戚へのあいさつ回り、二日目、先祖の墓参り、最終日は観光。
先の2日間とも、山背の影響で雨模様だったものの気温は25度前後と過ごしやすかった。観光日に当てた本日は快晴。気温も高め。朝食後、日の出町に父を迎えに行く。
午前9時40分の遊覧船に乗るために少し早めに、冗談みたいに遅い観光バス浄土ヶ浜ボンネットバスに乗り込み、中の浜で時間をつぶす。美しい景色とレトロなボンネットバス、まるで全部が宮崎アニメ。
燦燦と太陽の光とマイナスイオンが降り注ぎ、鳥が鳴き、まるで小川のせせらぎのような波の音。普段はこの世の天国のようなこの場所も、震災時にはその雄大な自然が牙をむき、人が作った堤防や建物はすべて飲み込み海の中に消えていった。。。かくしてそこに残ったもの。以前と変わらない美しい自然の海。海は透明で冷たく、浄土ヶ浜特有の白い石の浜(砂浜ではなく白い石浜)。浜から見る海側の風景は30年前と何一つ変わっていないのであった。
徒歩で遊覧船乗り場へ。遊覧船は3隻あった遊覧船のうち2隻はだめになってしまったが、無傷だった1隻で営業を再開した。(岩手日報)
小さい頃遊覧船にはよく乗った記憶がある。父は初めて乗ると言っていたので、母と、従兄妹達と乗ったのだろうが、ウミネコの記憶と、いつも海水浴をする奥浄土ヶ浜と沖との位置関係がよくわからず、自分がどこにいるのかあまり理解できてなかった気がする。ポイントとしては「浄土ヶ浜に行くのに服着てる」「船に乗るのに北海道へは着かない」みたいなことで、「自分が何しているかよーわからん」みたいに考えていたんじゃないかと思う。
大人になって初めて乗る遊覧船は、懐かしさと期待が入り混じったとてもエキサイティングな経験だった。ウミネコへの餌やりは最初怖いけどコツを知るとハマるわ。あとウミネコは無表情で怖い顔してる。すごい近い距離で(顔に翼が当たるくらい!)こっちをチラチラ見てくるのでなおさら怖い。
40分の遊覧でウミネコへ餌やり、天然記念物のローソク岩、夫婦岩、毛蟹岩、潮吹穴等の海からの名所めぐり、あとは津波が壊した堤防などの痛々しく生々しい爪痕、真っ青な空に透明な海、冷たい風、最高でしたわ。
遊覧船を降りて、一度中里団地の仮設住宅へ住む伯母の元に挨拶に伺う。父子で忘れ物をしていた模様。挨拶をして昼食へ向かう。昼食をとったお店はまたもや父の従妹の店だった。
食事後に宮古の魚菜市場に立ち寄る。果物と大好きな雲丹の塩漬け、ふのり(安っ)等を購入して、私は荷物をリュックごと宅配便へ。レンタカーを返して父と別れ、従姉夫婦と家路に着く。
宮古14:00発 - 岩手県北バス - 16:10盛岡着
盛岡18:28発 - はやぶさ406号 - 20:43大宮着 従姉夫婦下車 21:08東京駅着
これにて私たちの旅は終了。しかし復興の旅はこれから、被災地に家族を持つ人間として、何か考えなければいけない。
帰りははやぶさに乗ったよ。
宮古のハーパーを後にした私たちは従弟と父が乗る車を先導に、大槌町に向う。従弟はひっきりなしにタバコに火をつけている。つられる様に私たちもタバコに火をつける。宮古は一般家庭は大体プロパンガスを利用しており、津波が流れ込んで来た時にはたくさんのプロパンがガスを噴きながら海を漂っていて、町中にガスのニオイが充満していたという。タバコは危険視され、そもそもタバコを手に入れるのに難儀したと言っていた。
大槌町へは海岸を進む。やはり大きな被害を受けた山田町を通り、悲惨な海岸線を一時間程走る。
祖父の家があった鍬ヶ崎も大打撃を受けてはいるが、瓦礫の撤去が進んでおり、町並みは更地に近い状況だった。しかし大槌町は違っていた。
瓦礫の撤去途上、痛々しい建物は津波の被害、その後の火災の生々しい跡がくっきりと残っており、何があったかの一端は嫌でも垣間見える。振り返ると山肌に沿って建てられている墓がバラバラになっているのが近くに見える。・・・遠いのだが、近くに見えるのである。 病院は無人、川にかかる橋の手すりはグニュグニュとねじまがり、建物の鉄筋の向こうには次の景色が透けて見える・・・。
従姉が家族で経営しているホテルに到着、先導の従弟が名前を呼びながら階段を上がっていったので、私も何も考えずに後に続いたが、気がつくと怖くなってすごすごと引き返した。いつ崩れ落ちるともわからない建物なのだと言う事が一歩一歩を踏み出し、建物内を見渡す度に思い知らされた。電話で連絡を取って、近くのプレハブの仕事場にいるというのでむかう。
従姉の話を聞いた。偶然非常階段のそばにいた従姉はその建物を駆け上がり、真っ黒で大きな山(津波)がどんどんと近づいてくるのを見たという。上階で何人かの居合わせた人と一晩過ごす事となった。屋根に乗った人が窓の外を流されていく、ペットボトルなど浮くものをかき集めて備えた。
あちこちへ行くに連れ、たくさんの人の話を聞いた。震災直後はテレビにかじりつき、子供時代の夏を過ごした宮古や東北の悲惨な現実を見ては毎日の様に涙に暮れていたが、そんな時期はもう過ぎた。田舎を津波に取られた父や叔父の、こうした時期を直に見ておいた方がいいという薦めもあり、今回十数年振りに岩手を訪れた。地元の人から、地元じゃない人から、旅行よろしく岩手を訪れる事がどのように見られているかは定かではないが、あれこれ見て歩けるのは、ひとえに近い親戚が奇跡的に誰も亡くならなかったおかげ。最も大事な事は結果的に今生きている事。だが、しかし、話を聞くに大槌の従姉は正直危なかったと思った。中学三年生の彼女の息子も然り。
1時間程話を聞いて、また1時間かけて宮古に戻る。治安維持、交通整理(信号があちこちに落ちている)の関係でたくさんのパトカーとすれ違うが、岩手県警のパトカーを見つけるのは難しい。借りているのか来ているのか、日本全国のパトカーが走っていた。
ホテルに戻り、食事後同じ面子で宮古のスナックへ繰り出す。ハーパーで出くわした父の従弟がやっているお店でお酒を飲む。
2日目 2011/7/16 5時に目が覚める。6時までテレビをみる。旦那さんはその間1mmも動かず。・・・・。
朝食後、父を迎えに日ノ出町へ。墓参りセットゲットその後心公院の祖父の墓へ。
山背による霧が深く、幻想的な墓場の雰囲気。空気はすっきり澄んでひんやりと冷たい。
ひとしきり掃除。松明かしと花火。(花火と言うより調達出来たのがロケット花火とネズミ花火と爆竹。花火界の不良のみ。)
その後昨年12月に亡くなった伯母のお墓参りへ。従姉妹に会う。うーん、そう言えば宮古で祖父のお墓以外お参りした事がなかったなー。
父主催のランチ会へ出席する。盛岡の伯父、伯母(正確には伯父ではなく、祖父の従兄弟)、宮古の伯父、伯母、私の宮古の従兄弟の中で一番大きい従兄弟などが集まり一緒に来た東京の従姉妹夫妻、私と旦那さんのお披露目、紹介、お寿司を頂く。
子供時代、伯父達(父の姉達の夫)は私にとってなんとなく不思議な存在であった。あまり話した事も無かったし(何より自分がまともに話ができる歳ではなかったが)どこの出身であるとか、どのようなパーソナリティなのかというのは謎であった。ただ単純にいつも優しくて、いつもニコニコしていて、イトコ達の親と言う事しか知らなかった。優しくて、ニコニコしてイトコ達の親と言う事は今も変わっていなかったが、今回大人になって話してみて初めて知った事はたくさんあった。きっと伯父達もあんなに小さな子供(私は15人いるイトコの中で下から3番目に若い。)だった私が、アラフォーになり、旦那を連れて宮古に来る日が来るなんて思っても見なかっただろうから、私同様、色々思う所があったろうと思う。あと、東北弁を100%理解するのは無理だと改めて悟りました。
大きい従兄弟に案内してもらって、伯母のお墓参りへ。父は墓への道中が険しいので車で待つということで、従兄、従姉夫婦、旦那さんで伯母の墓へ。こちらも初めてのお墓でしたが、ショックな事に伯父と伯母の墓は先の地震により、墓石が倒れていました。(隣近所の墓も倒れてた)ふうむ。大きい従兄弟は「また銭がかかるー」てな事を言っていました。
その後、従姉を訪ねて大槌町へ。途中宮古のヨットハーパーへ立寄り被害の状況を一望。父の従弟に出くわす。
さて大槌町は今回の東日本大震災では、南三陸町、陸前高田に並ぶ最大規模の被害を受けた地域。あの旅館の屋上にほとんど無傷で乗る、観光船はまゆりの光景はたくさんのメディアに取り上げられ、世界は大きなショックを受けた。
初日2011/7/15 朝4:30起床。
東京6:56発-はやて155号 - 7:22大宮で従姉妹夫婦と合流 - 9:44盛岡着
盛岡11:04発 - 快速リアス - 13:03宮古着
新幹線やローカル列車に乗り馴れて来たので快適。宮古駅にて父と合流。レンタカーを借りてそのまま市内へ。小雨。
昨年12月に亡くなった伯母の仏壇に手を合わせる。 伯父から岩手日報報道特別写真集を頂く。ちょうど盛岡駅の本屋で立ち読みして、帰りに購入しようと思っていた写真集。
基礎を残して何も無かった。近所も全てが基礎のみ。がれきも無く、以前は見えなかった近くの神社や小学校が見渡せた。
きせる屋跡地にてボランティアが円陣組んで酒盛りをしていたという話を聞く。向いは酒屋でプレハブを建てて営業中。なかなか良い位置関係。
おばあさんの仏壇に手を合わせて、お茶を飲む。昔のアルバムなどを見る。
大槌から従姉妹とその息子。疲れた表情が気にかかる。
より大きな地図で 2011/07/15 岩手県宮古市 を表示
今回お世話になる旅館沢田屋へチェックイン。
私の犬は元気そうでした。もう11歳ですが、相変わらす若々しくて。
納豆がおいしくて、帰って来ていつもの納豆を食べたくなくて泡立ちの良いふっくらした納豆を探しています。
祖父のお墓参りに参りました。
祖母のお見舞いにも行けました。時間があまりなくて残念だったなー。凄く元気そうでした。首を上げて色々と見ようとしていました。車椅子で出かけると、沿道の花壇をジッと見ていました。またハガキを出します。
平日は毎日、東京ローカルの地方ラジオであるInter FMを聞いてます。地方局はメールを出すと大体読んでもらえる競争率の低さが魅力です。とはいえ、外国語放送局であるInter FMは朝からピーター・バラカンがパーソナリティを務めるなど、メジャー感とFMのシャレオツ感がバランス良く入った良い放送局だと思います。私がInter FMを聞き始めた1997年とかその辺からこの雰囲気は全然変わってないような気がする。一度TwitterでDJのKCはどこいっちゃんだろうなーという様な事をTweetしたらInterFM公式に「KCは日曜日夕方にジャズの番組やってますよー」という返事を頂きましたww
平日は毎日10:00 - 15:00までGLOBAL SATELLITE、15:00 - 18:00 DAVE FROMM SHOW、という流れなんですが、(最近はTBSラジオ全然聞いてないよ。。)テンの写真を送ったら採用された :P
http://www.interfm.co.jp/global/blog/2011/06/13/10/56/
さよこさんとGuyさんがテンをとっても褒めてくれたyo
2011年3月12日九州新幹線全線開業、そのプロモーションDVDが発売されます。プロモーションCMは2011年2月に撮影されました。九州縦断ウェーブは鹿児島~博多間の地域住民1万人がウェーブで参加するという大規模プロジェクトをCMにしたものでした。
CMは2011年3月9日から放映されましたが、先の大地震に配慮して2011年3月14日には放映を中止したという経緯があります。
このCMはTwitterなどの口コミで放映中止後も「九州が、日本のみんなが、世界のみんなが応援しているよ!日本人はまだやれる!東北復興・東北頑張れ!」というようなポジティブなキーワードと共にたくさんの人に希望と勇気を与えてきました。私自身もこのCMは地震直後にTwitterで知り、当時のひどく落ち込んだ気持ちを少し上向きにしてくれた映像でした。
※にっこりコメントOFF推奨
新幹線からの車窓と言うのは日本では圧倒的に田園風景です。私にとってのあの悪夢のような映像、田園風景を飲み込み、建物を巻き込みながらずんずん進む真っ黒な津波、逃げ惑う車や人々、なす術もなく屋上に避難し恐怖に体を固める人々。
一方で日本の田園風景を派手に飾り付け新幹線の全線開業を喜び合うたくさんの人々、笑顔で走る子供、手を振る老夫婦、ビルの屋上から色とりどりの傘を振り喜びを表現する人々。
この、同じ日本にありながら同じ風景にありながら、全く正反対の意味合いを持つこの映像は、驚きを持って私の記憶に深く刻み込まれました。
彼らの、ひとつになった九州から、新しい力が生まれ、そのパワーがウェーブでどんどん北上し、日本中がまたひとつに、日本中がまた笑顔で手を振る事ができますように。
DVD発売の詳細は 祝!九州 http://www.shuku9.com/
あの日、手を振ってくれてありがとう。
笑ってくれてありがとう。
ひとつになってくれてありがとう。
ひとつになった九州に新しい力が生まれています。
ひとつになった九州から日本は楽しくなるはずです。
販売額 ¥1,000 (税込み/送料別)内¥200が東日本大震災の義援金として寄付されます。
わが町仙川駅前でも、土日になると子供達が「わーわー」と募金活動を行っております。こんな時期に募金活動にあーだこーだ言いたか無いんだけど、思う所があるので書きます。
どうも最近募金箱の盗難、募金箱の恐喝が相次いでいるらしい。
震災後から居酒屋やレストラン等普段レジに人が常駐しないところでも最近募金箱よく見る。もう、もしよかったら持って帰ってくださいとばかりに。
小銭を抱えて持って行く人はいないだろうけど、実際はそういう事件もあるらしい。こういう募金箱の状態を見ると、募金活動を行う「店側」の募金に対する考え方が見える。「とりあえず募金箱でも置いておくか。」
募金箱の盗難は活動を終え、一息つくファミレスで起こり、恐喝は活動を終え、募金箱を手に帰る子供に対しておこなわれる。活動を行う人、特に子供の安全が確保されていない。自分でやりたいと言うのか、色々な影響でやる事になるのかしらないが、募金活動はただでさえ私のような、募金活動懐疑派の冷たい目線にさらされる。ひとつ、考え方の違う人間が存在するという貴重な経験にはなるだろうが、犯罪という恐怖と共に経験させるべきではない。
あとは募金する方の意識の低さ。「お金入れたー、良い事したー」で終わっていないか。私は自分の一円ががどうやって、どこへ行き、どのように使われたかきちんと把握したい。まさかその様な善意のお金の通貨経路、透明性や使い道を把握できない団体/個人が募金活動しているわけじゃないよね。募金した事が無いのでわからないんですけど、そういう募金活動団体もいるのか。
銀行や郵便局から(めんどうならネットバンクから)いくらでも確実に送金が出来るのに、なぜあのようなふんわりした募金活動にお金を投じるのか謎。「お金入れたー、良い事したー」「募金活動したー、良い事したー」で、お互いが自己満足で完結するならわかる。そういう場合って行為に価値が生じるからお金には何の価値もない。こんな悲しい事があるか。
どうせ募金するなら、箱に入れずにぜひとも直接送金しよう!
日本赤十字 http://www.jrc.or.jp/
自治体へ直接送金もできるよ。ゆうちょ銀行義援金口座一覧
原文 http://www.snopes.com/inboxer/household/triangle.asp
私は、アメリカ国際レスキュー隊の隊長で災害担当責任者のダグ・コップです。アメリカ・レスキュー隊は、世界で最も多くの経験を積んだ救助隊です。
私は60カ国で組織されている国際レスキュー隊のメンバーと共に、1985年以降ほとんどの主だった災害の救助活動にあたり、875もの崩壊したビルに入りました。
私が初めて救助活動にあたったのは、1985年のメキシコ大地震のとき、メキシコシティーの小学校でした。
子供たちは皆、机の下敷きになっていました。この子供たちが、もし、机と机の間の通路にいたなら、助かっていただろうにと思うと、私は本当に、いたたまれませんでした。
ビルが崩壊して、天井が落っこちてきたときは、テーブルや家具などを押しつぶし、その隣には空間ができますがその下に空間ができることはありません。
絶対にテーブルや机の下に入らないでください。
家具が大きかったり、強度があればその横に空間ができるのです。この空間こそが「命の三角形」です。
そして、この空間に入り込めば、助かる可能性が高くなります。 実際、崩壊したビルにはこの「命の三角形」がたくさんあります。
地震のときは、以下の注意を守ってください。
ウチのお母さんはサササっとテーブルの下に入るので、気をつけて欲しいです。。。机の下に入るなって今更言われてもなあ。しかし何を信じれば良いのだろうか。。